江戸幕府は、慶長9年(1504年)から街道の整備に取り掛かり、並木の植樹と一里塚の構築を命じています。
江戸時代の茅ヶ崎は、藤沢宿と平塚宿の間にあり、間の宿と言われました。文化3年(1806年)に江戸幕府が作成した『東海道分限延絵図』を見ると、沿線に菱沼村、小和田村、茅ヶ崎村、浜之郷村、下町谷(屋)、今宿村、中島村があり、牡丹餅立場、一里塚、南湖立場、姥ヶ島(姥島)、などが描かれています。
そのころの東海道の道幅は、旧小和田村付近で約11m、南湖立場付近で約7m、馬入川付近が一番狭く約6mであったといいます。
立場とは旅人が休息するための施設で、牡丹餅立場は、今の菱沼バス停の付近にあったと言われています。この辺りは街道の高みの頂上となっていて、茶屋から海まで見通すことができたということです。
また、南湖立場は、市内の東海道筋では最もにぎわいました。
そこには本陣(松屋)と脇本陣(江戸屋)があり、松屋は間口20間(約36m)ほどの構えであったといいますが痕跡を留めていません。
江戸屋の操業は元禄ごろと推定されています。享和元年(1801年)、幕臣太田南畝(蜀山人)がこの江戸屋に立ち寄り、ひしこ(カタクチイワシ)のなますと*松露(キノコの一種)の吸い物を食べ、その印象を漢詩にして称賛しています。近くの海とマツ林では、このひしこと松露がたくさん採れたと言われています。
(丸ごと村ごと歴史調査グループ 生涯学習課)--平成13年(2001年)6月1日)
*松露(しょうろ) 編注1)
海岸の松林の末の根元に生えるキノコで、6〜9月頃の台風の季節に採れた。雨の翌朝に海岸の松林に入ると一面とても良い匂いがしたものです。
香りがよく、吸い物に使われた。形はうずら豆大の楕円形の球状で色は茶色、食感は弾力があるスポンジを食べたような感じで、味そのものは特にない。
聞いたところでは鎌倉から茅ヶ崎辺りで採れたという。近年では松露が採れたという話を聞かない。松の根元の枯れ松葉(くず)がきれいに取り除かれていないことで採れなくなったのでないかと思われる。
(原)
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編注1)ひしこなます・松露についてもっと知りたい人は
茅ヶ崎の夏、浜降り祭から(ちがさき丸ごと博物館)3ページ
編注2)このあたりです
南湖全図_北A_03