南湖天王山八雲神社傍に住む網元鈴木孫七家は天孫の屋号で呼ばれ代々寒川神社の御旅所神主(おたびしょかんぬし)を務めてきている。御旅所神主とは祭礼の都度、寒川神社から祭礼の準備万端を依頼され、それを実行する役目である。即ち、

「献鐉(けんせん)、盛砂(もりずな)、注連(しめ)張りなど、古くは風折烏帽子かざおりえぼし、素襖(すおう)、近年までは麻裃(あさかみしも)を着用し刀を差して最初に玉串を奉奠(ほうてん)した」

のである。

 市の文化資料館に御旅所神主に任命された時の古文書が 展示されており、次のようなことが書いてある。

 「・・・身浄目伝達せしむ上は神事祭礼の日其の身浄目御旅所出入りせられべくよって執啓(しっけい)如件 ・・・中略・・・ 天保一二年丑年正月 相州高座郡茅ヶ崎村南湖鈴木孫七殿」

 また、同年四月の古文書には次のような名前に変わっている。

「天保一二年四月相州高座郡茅ヶ崎村南湖寒川神社御旅所神主鈴木丹波殿」

 この丹波という名前は、今でいう神社庁という役所から御旅所神主(おたびしょかんぬし)としての名前を与えられたものと思われる。名誉この上ないことである。“言い伝え”ではこの名誉を与えられた理由を次のように伝えている。天保 9 年(1838)国府祭から帰る途中 途中の寒川神社のみこしが馬入川の渡 し場で平塚八幡宮のみこしを担ぐ人たちの乱暴に合い、みこしが川に落ちて海に流されてしまった。数日後、南湖の海で網を引いていた孫七が、海中に沈んでいるこのみこしを発見し引き上げ自宅裏の石尊山に安置し寒川神社に急報した。三日後にみこしは寒川神社にもどった。神社では孫七の功績に報いるために「御旅所神主」という位を与えた。このみこし拾得の縁で寒川神社のみこしは孫七の漁場である南湖の浜へお礼詣にくるのだという。

(南湖郷土史より)

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編注)このあたりです

南湖全図_中A_27