南湖座について大沢秀雄(友田恭助令弟)は次のように述べている。「南湖座を始めたのは伴田五郎が十一か十二の時でした。茅ヶ崎に、親類の別荘があって、そこへ夏になると、子供が集まるもんだから、海水浴のあひま(合間)には、戦争ごっこや泥棒ごっこをやっていた。始めは、松林の中でした。ところが、僕らの家庭教師をやっていた鈴木周作さんという文学士が初めて脚本を書いて呉れて、別荘の離れで芝居みたいなことを初めることになったんです。

 明治42年(1909)頃でした。最初の脚本は、「にせ地蔵」といって、何かルン ペンか何かからとってきたんだと思ふんですが。」

 「はじめは、離れの座敷を使って一間を舞台、一間を客席にする。廊下を花道に見立ててやったもんです。お客は家のもの、村の連中で、離れの時代が四、五年つづいたと思います。」

・・・中略・・主役はたいてい伴田五郎がつとめている。・・・

中略・・・出演者にはそれぞれ芸名がついていた。

 伴田恭助(雷屋五郎兵衛)、大澤秀雄(大耳屋美利之助)、大澤周吉(八本屋多古周)、大澤達吉(黒子屋美留久)、・・・略・・・土方与志(*磔川屋輿志坊 れきせんやよしぼう)、土方久步(黒步屋琴風)、高田茂(猪屋蕎麦之助)などである。土方与志の芸名、磔川は当時、土方の住まいが、かっての処刑場である小石川であったことによるとしている。芸名は身体的特徴などを洒落て付けており、遊び感覚で付けられている。その他として、女優や唱歌隊がいたことも記されている。

 伴田家と大澤家の関係は不明であるが、親(父親か母親)同士が兄弟の親類関係であり、従兄弟関係にあったと考えられる。南湖座の観客は地元の年寄りや子供たちであり、海水浴場や道場に南湖座のポスターを貼って観客をあつめている。

 開幕は日没に始まり、別荘の座敷が舞台、向かい合いに立っている家の座敶には家の者や招待客、庭や土間が村の連中の客席であった。小屋が出来た動機(事情)について、大澤幸雄が次のように述べている。

 「つまりね、熱心のあまり、障子やなんかに、どんどん背景を書いてしまふし、たゝみは荒れ放題ってわけで、一つは、どうにも、仕様がなくなったのと、もう一つは、まあ、自分の別荘の中へ、小さな劇場を立てたんです。」

 ・・中略・・・友田恭助の演劇の出発点は茅ヶ崎(南湖)の夏の間の素人演劇集団「南湖座」の活動にあった。土方与志(ひじかたよし)の演劇への出発点も同じく南湖座での活動にあった。

 茅ヶ崎南湖において伴田五郎と土方与志の二人の出会い、二人の演劇における夢が一つの形を結んだ結晶が築地小劇場の運動であったと言えるのではないだろうか。

 伴田家の別荘のあった場所(南湖座のあった場所)は、南湖の六道の辻から丸大魚市場、森モーターサイクルの間の坂をのぼった辺りである。

(ヒストリアちがさき第2号 「築地小劇場」のルーツは茅ヶ崎(南湖)にあった ー友田恭助を中心としてー 島本千也著 p76〜86より抜粋)

磔川・・・読み れきせん こいしかわ とも読めるとのこと。

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編注1)伴田別荘については24項参照

編注2)このあたりでした

南湖全図_中A_25