神奈川県立茅ヶ崎西浜高校、有料老人ホーム茅ヶ崎太陽の郷(さと)の辺り一帯は、かつて東洋一の設備と規模とうたわれた結核療養所南湖院跡です。開設当初の第一病棟など施設の一部が残っています。

 南湖院は、医師高田畊安(1861~1945)が開設しました。畊安は、京都府加佐郡中筋村(現・舞鶴市)で生まれ、明治29年(1896)東京の神田鈴木町に東洋内科医院を開業しました。新島襄に師事してキリスト教の洗礼をうけ、明治25年(1892)勝海舟の孫娘にあたる疋田輝子と結婚しました。結核で兄を失い、自分も同じ病気で転地療養をした体験から、結核の治療に生涯をかけました。明治31年(1898)茅ヶ崎駅が開業された時に、南湖に土地を求め、翌年に南湖院を開院しました。開院以来、順次拡大整備され、最盛時は約4万坪とも5万坪とも言われる敷地に、多くの患者がいたといわれています。療養生活を送った人々の中には、国木田独歩など多くの著名人がいます。また、公開されていませんが、畊安訳の「イエサヤ豫言/第九章五及六」の一節を刻んだ碑(昭和13年:1938)が太陽の郷敷地内にあります。この碑は、畊安が生前自分の墓石として造り、東京谷中の高田家の墓地に送るはずの所、畊安の死や終戦時の混乱のため現地に残されたままになったものです。

(「ぶらり散歩 郷土再発見」から)

 南湖院は、東洋一の結核療養所といわれたほど当時の先端をいく結核治療法と数々の付帯施設を備えていたため、医療機関の見学者も多数訪れたといいます。また、地域との交流が南湖院の特徴の1つとして挙げられます。南湖院での最大行事は医王祭(南湖院のクリスマス)でした。医学学校時代にキリスト教徒として洗礼を受け、熱心なクリスチャンであった高田は、県内はもとより全国の同業者に絵はがきで招待状を出し、地域の人も招いた盛大な医王祭を催しました。その様子は参加した人たちの楽しかった思い出として、今も南湖の人たちに語り継がれています。

 南湖院は、大正12年(1923年)に起きた関東大震災により、建物63棟の約3分の1が全壊してしまいました。この日、療養所内には患者や職員など合計411人がいましたが、4人の死傷者が出たと記録されています。

 また、昭和19年(1944年)には、太平洋戦争の影響から海軍によって南湖院の一部が接収されました。その翌年2月に、高田は83歳で亡くなっています。5月には海軍が全面接収し、南湖院は病院としての役目を終えました。

(丸ごと村ごと歴史調査グループ 生涯学習課―平成14 年(2002 年)3 月1日号―)

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編注)このあたりです

南湖全図_南A_14