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童謡「赤とんぼ」は、作曲家山田耕筰が茅ヶ崎市に住んでいたときに作曲されたことを広く知ってもらう為に茅ヶ崎市民ボランティア団体「山田耕筰」と赤とんぼを愛する会が山田耕筰居住地の近くに “「赤とんぼ」作曲の地”という曲碑板を立てています。

*エピソード:そのまま私は母のもとに三ヶ月も寝ていた。そして死に直面する処まで行ってしまった。しかし、万一を願って、母が私を、駿河台の高田病院に担ぎ込んだ。その夜から私は昏々と眠るようになった。母は熟睡する私を見て、いつ息を引きとるかと、徹宵して私を見守っていたのだそうだ。が、私は息を引きとるどころか、その翌日から、薄紙を剥ぐように、だんだんと快方に向かった。高田先生も、全く奇跡的だ、と言われた。

(「自伝 若き日の狂詩曲」)

 1899(明治32年)年、肋膜炎と診断され、自宅で三ヶ月の療養後、お茶の水にあった東洋内科医院で高田畊安の診察を受け、二ヶ月間入院したのである。

(「茅ヶ崎市講座 南湖院の音楽家たち」より)

山田耕嗣(息子)父を語る・・・

 今振り返って見ますと父は、何から何までパイオニアでした。

 日本人初の交響曲作曲、簡易作曲法・和声楽の理論の出版。カーネギーホールで自作曲によるに日本人初出演。楽劇協会設立。外国人のオーケストラ招聘。大日本音楽著作権協会設立等々。中略(茅ヶ崎の住まいなどについて)(大正15年9月、住居を妻、菊尾の実家茅ヶ崎に移す。)と記載されているのがありますが、これは間違いで、正確には、茅ヶ崎に実家はありませんでした。松竹の大谷社長の紹介で大重工務店(二階建ての一軒家)を紹介してもらい家族で新天地に越してきたのです。

 また、(大正15年11月より昭和2年3月まで住む)との資料もあります。これも正確ではなく僕が小学校を卒業するまでの6年間家族は茅ヶ崎に住んでいました。

 ぼくが5年生のとき、おやじが黒板一間もの一面、花輪一対を茅ヶ崎小学校に寄付しました。・・・大正15年(1926) 、昭和2年(1927)

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編注)このあたりです

南湖全図_中A_18