三橋兄弟治(みつはし いとじ ) は、明治44年(1911)1月22日、高座郡茅ヶ崎町( 現・茅ヶ崎市 )に生まれました。茅ヶ崎尋常高等小学校 ( 現・ 茅ヶ崎小学校 )4年生のときに描いた月見草の写生を担任教師に誉められたことをきっかけに絵を描く喜びにめざめた三橋少年は、神奈川県師範学校(横浜国立大学教育人間科学部の前身)在学中に「明治大正名作展覧会」を観覧、大きな感銘をうけ、画家となることを志します。
昭和4年(1929)、槐樹社(かいじゅしゃ)展に油彩画の「妹の像」が初入選した三橋は同年、この槐樹社の創立会員・金沢重治(かなざわ・じゅうじ)に師事します。以降、小学校教員やアルバイトをしつつ、独立美術研究所や番衆技塾(ばんしゅうぎじゅく)(二科美術研究所)に通い絵を学びました。
その後、旺玄社(おうげんしゃ)展や二科展、新水彩協会展、横浜美術展などに作品を発表した ほか、昭和15年(1940)には紀元二千六百年奉祝美術展覧会の公募部門入選、また、昭和17年(1942)の二科展出品作品により皇紀2602年度水彩画推奨記録賞を受賞しています。敗戦後の 昭和23年(1948)には水彩連盟会友となり、以降は水彩連盟展が主要な作品発表の場となってゆきました(1953年会員推挙/88年初代理事長に就任)。
また、昭和24年(1949)には現在の茅ヶ崎美術家協会展の前身である茅ヶ崎美術クラブ創立の中心となり、この地域の画家たちの指導者としての役割を担うようになります。
昭和27年(1952)、渇筆描法(かっぴつびょうほう)(あるいは擦筆描法)と名づけた技法を考案。ほとんど水をふくませない筆に直接絵具をつけて描く水彩画法により三橋は独自のマティエール(絵肌)を確立します。その後は1958(昭和33年(1958)から昭和43年(1968)にかけて、自己の内面に生ずるイメージを純粋に色彩や形、線などの要素で構成する抽象表現にとりくみました。
その間、昭和39年 (1964)に16年勤めていた茅ヶ崎市立鶴嶺中学校を辞し、同年末から翌年6月にかけてヨーロッパ各地を旅行します。このとき取材した各地の風景が再び具象画制作に向かわせることとなります。なかでも三橋の心を捉えたのはスペインの風光でした。以降、スペインへの取材旅行をくりかえし、そのなかから詩情にみちた三橋芸術が次々に誕生したのです。しかし平成4年(1992)の暮、16回目となるスペイン訪問からの帰国直後に三橋は病に倒れます。その後も懸命のリハビリと並行して制作をつづけていましたが、平成8年(1996)6月17日、ついにその生涯をおえました。
(茅ヶ崎市美術館ホームページより)
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